1839年ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがカメラを発明し、絵画は改革を余儀なくされた。
絵画は写実性以外の色使いや筆触、造形の改革を求められた。肖像画やあるがままが描かれた写実絵画にとっては、客観
的な表現を短時間で残してくれるという写真の手法は当時、画期的であったであろう。
そして写真は多くの人にとって最も完璧な絵となった。一方で絵画や彫刻は、抽象表現への進化を遂げていった。
絵画や彫刻は作品と作家が身体を通して近い関係にあるが、写真はカメラを媒介する事になる。
その分私は視覚的な刺激を、できるだけ排除する抽象作品には写真は適していると思えた。
抽象要素のある絵画やミニマルアートを光を通して模った場合、その時写真が写真でいる事ができるのか確かめたく撮影
を試みた。人々に広く知られている抽象及びミニマルアートの絵画、彫刻作品を厚紙で模りフォトグラムの技法は用いず
その模られた厚紙の後ろから光をあてモノクロームの銀塩フィルムで撮影をした。
プリントされた写真は筆の痕跡や人が介入した気配もなく、即物的となりただ光と影が現れていた。
私はこの事を数学の観点から考察した。数学では同じと見なせるものは同じとするのが原理原則である。
だが人間は時に同じものは同じと見なすが、同じものを全く違うものと認識する矛盾をも自分の中で折り合いをつける事
ができる柔軟性を持っている。絵画や彫刻が写真になった場合、この矛盾を包み込み写真は自由になる事ができるのであ
ろうか。そして更なる問いが私にはあった。かつて四色定理という、数学の難題に挑んだ数学者がいた。
そして124年の時を経て四色定理はコンピューターによって証明されたわけだが、美しい証明ではないと批判も浴びた。
コンピューターを使わないエレガントな証明にこそ、価値があるという考えを持った数学者が多数いたのである。
今日私たちは、アナログとデジタルという選択がある。アートも然り。アナログという偶然とデジタルという完成。
デジタルの世界は数字でいうと、0か1しか存在しない。アナログは0と1の間にある1/2も含む連続量を分かり易い別
の連続量に置き換え、目に見える量で表しているが曖昧である。私は恐らく、その0と1の間にある何かを期待している
のだと思う。アナログの場合は連続的なデータで、デジタルは段階的に区切ったデータ状態で表されている。今回の試み
はフィルムで作成したが、段階的に作成した為デジタルともとれる結果となった。
アナログとデジタルであろうが作者と観者が写真と認識したのならば写真にほかならない。